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*みかげじんじゃ*
* Mikage shrine *
*通称 大森神社*

   場所:舞鶴市字森    JR東から南へ徒歩7分
京都交通 東西循環・高浜線「大森神社前」下車  附近図はこちら
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彌伽宜神社(大森神社)例大祭日 : 毎年7月14日・15日
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水 を ま つ る 社
金 属 加 工 の 技 術 集 団 が 開 く

森・行永地区の住宅地の中、豊かな森を持つ彌加宜(みかげ)神社は「大森さん」と呼ばれ

古くから地域の氏神として親しまれています。

 また、水をまつる社とし、本殿は井戸の上に建ち、境内から杜(もり)清水と呼ばれる

霊水が涌き出ることでも知られています。

《祭神の子孫が行永を開く》

 開創は丹波道主命(たにわみちぬしのみこと)で、祭神は、その母の

息長水依比賣(おきながみずよりひめ)の先祖である 天御影命(あめのみかげのみこと)。

同神は「古代製鉄」の神で、御上(みかみ)神社(滋賀県野洲町)の神と同じです。

丹波道主命の母系の息長氏は、金属加工の技術を持った集団でした。

最近の研究では、東市域一帯を開き、古代倉梯郷を本拠とした製鉄集団・息長氏の

神まつりの場が「森」であり「行永」は息長に由来すると考えられてきています。 


《大蛇の尾をまつる》

森・行永地区は、江戸時代までは、与保呂川の豊富な水源から田辺藩内で一番の米どころでした。
しかし、同川はかつて氾濫を繰り返していました。与保呂川筋の有名な大蛇伝説は治水の祈りから生まれたものとされます。
流されて蛇切岩(じゃきりいわ)に切られた大蛇の頭は日尾池姫(おいけひめ)神社(与保呂)に、胴は堂田宮(どうだのみや)(八反田南町)に、尾はこの大森さんにまつられたと言い伝えます。

《住宅地の中で貴重な自然》
社殿を包み込む木々は、古いもので樹齢四百年とも言われ、住宅地の中に珍しく残った自然として貴重です。
杜清水が湧き出る池の水面には、古くから大切にされてきた木々が映え、自然の豊かさを今に伝えています。

○協力 舞鶴市文化財保護委員会会長 高橋卓郎さん○ 

(大正〜昭和初期頃)梅寿堂茶舗 WEB担当 岡 田 真 一様ご提供

右側の神上池前祠の位置から見ると現在の神殿のみの状態で拝殿はまだ無い状態です。

   [彌伽宜神社二の鳥居・本殿]  

 [一の鳥居から参道を望む]

 [八代荒神社] 

 [神木:夫婦の樹] 

 [参道を南から望む]

 [神池:上池(神泉)]  [神池:下池]   [三安神社]

本殿(拝殿)及び神殿を望む

★境内は、京都府文化財環境保全地区(平成3年)。本殿は、京都府登録文化財(同年)
(当社の鎮守様、氏子です)★ 
★舞鶴要港部・舞鶴要塞司令部:許可済 彌伽宜神社海軍省奉納の「春日艦大砲他昭和十年代の歴史画像5枚」★
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☆80軒を越える”昔懐かしい露天店”が境内いっぱいに立ち並びます。☆

 ○ 大名行列の変遷 ○

 昭和28年9月25日に舞鶴地方を襲った台風13号により未曾有の大被害をもたらした。
 死者53名、負傷者131名、被害総額57億円と記録されている。

 こうした悲劇と困難から立ち上がろうと、森、行永両地区の「氏子」、「宮衆」に「南商工会」が呼びかけられ、
翌年(昭和29年7月)に初代大名役に長井修造氏を抑え、大名行列を挙行し「五穀豊穣」、「家内安全」、「故郷の振興」を祈願し祝詞が奏上されました。

 それ以降毎年盛大に挙行され、昭和37年南実業会から南自治連合会に引き継がれ、昭和45年に氏子有志が中心となり「大森神社奉賛会(初代池田淳郎会長)」が結成され、現在( 橋省之会長)に至ります。

 

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 ☆★☆★☆★ 平成弐拾九年度大名行列編成一覧 ☆★☆★☆★

 第六拾四代 山口 丹後守 正行 氏 (森地区)   御幣  水上  保氏:代役( 森地区)

御正室 : 橋 秋子さん           : 田向 裕子さん

腰元 : 野本 彩さん 奥西清美さん    

衣装 ・ 着付 ・ 付き添い他 :【太秦企画 : 4名】/【坪倉(実行委員) ・  柏木(実行委員) ・ 堀田(実行委員) ・ 郷田(実行委員) ・ 南・枝(実行委員)

  川島・長井・林田・米田・小森・風間さん

先達(1名 :
総督杉谷)→先導(2名 :御先手頭浅尾 ・ 御先手頭今儀)→社名旗(1名 :御先手旗頭塩見)→錦旗(2名 :御先手組頭田中 ・ 御旗組頭山本)→

社紋旗(2名 :
御先手組頭川端 ・ 御旗組頭永井)→歴代大名会(代表1名 :老中首座國松・寺社奉行矢野)→比礼旗( 2名:御旗物頭加藤 ・ 御旗物頭杉山)→

奴長(1名 :
大番頭木野本実行委員)→鋏箱(4名 :御供先役四方 ・ 御供立役岡見 ・ 御供立役山本 ・ 御供先役古川)→

白毛槍(4名 :
御長柄組久保 ・ 御長柄組蒲田 ・ 御長柄組南 ・ 御長柄組頭工原)→→黒毛槍(4名 :目付馬場 ・ 公事方田村 ・ 徒組上羽 ・ 徒組池本)→

大奴( 4名:
目付土本 ・ 目付竹山 ・ 目付堀 ・ 目付黒崎 ・ 目付奥野・)→立傘(1名 :御槍組中村)→台傘(1名 :御槍奉行飯牟礼)→

太鼓( 4名:
蛮士有馬  ・ 押太鼓頭枝 ・ 御家人大石 ・)→

囃方( 8名: 貝役組頭田中 ・ 貝役道越 貝役山本 ・ 貝役仲野 奏者番岩下 ・ 奏者番鈴木 ・ 奏者番崎山 ・ 奏者番前迫)→

御幣:(1名 :水上保)→幣物(2名 :
小荷駄番頭山雄 ・ 小荷駄番頭 実行委員児玉)→大名(丹後守1名 :参向大名山口正行)→小姓小姓組久木堅斗くん:1名 ・腰物同心奥本)→

 大名警護(1名 :
腰物頭山田)→大名傘( 1名 :傘奉行山本)→

奥方(1名 :
御正室橋秋子)腰元( 2名: 侍女野本・侍女奥西)(1名 :御息女田向裕子さん

大名篭( 2名 :
側衆吉岡・渡辺)→五色旗(2名 :旗本衆山中・旗本衆石井)→

警固( 7名:五番方五番方中島五番方吉田・五番方的場 ・留守居谷口・留守居木本・書院番村上 )→

( 5名:筆頭家老:杉谷 ・  次席家老:工原 ・ 大名家ご容認:東 ・ 家老:今儀 ・ 勘定吟味役:伊藤
敬称略・順不同
  【ホームページ編纂役から】今年は難しかったですよ。おうてますか?
間違いで不都合な時はお知らせ下さい。御幣は代役で良いのですか?(n@takaden.info)


第57代高橋丹後守重一氏 

平成20年大名行列風景(新調の白・黒毛槍)

大名行列の巡行コースをPDFでご紹介
(クリックして下さい)
(Please click) 

第50代彌伽宜神社大名行列サムネイル画像はこちら

○○各地の大名行列を紹介します○○
 

○○舞鶴市の昔絵はがき巡り○○

彌伽宜神社例大祭催時一覧 ☆
 

次年期は2018年7月14日(土曜日) 

◆8:00〜  ふれ太鼓(南スポーツ小年団OB)
◆11:00〜

 参 殿( 森・行永宮衆)
 玉串宝典、奉納太鼓
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 奉納演武 : 彌伽宜神霊剣
  (演武者:高橋 素直先生)
 (日本戸山流居合道正統会)

◆13:00〜 例大祭祝宴会(南実業会館)
◆14:00〜16:00 大名行列巡行
(南公民館出立)
◆14:00〜 子供太鼓
◆13:00〜 子供御輿:九基
(各町内出発)
◆08:00〜 生け花展(池坊舞鶴支部)
◆17:00〜 空手道演武(明誠館)
◆18:00〜 奉納太鼓(舞鶴太鼓保存会)

 2018年7月15日(日曜日)

◆10:00〜

奉納弓道大会(弓道連盟)

歴代[丹後守(大名)][奉賛会々長]一覧表はこちら
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平成29年度の年祝

還暦 61歳 昭和32年生
古稀 70歳 昭和23年生
喜寿 77歳 昭和16年生
傘寿 80歳 昭和13年生
米寿 88歳 昭和 5年生
卒寿 90歳 昭和 3年生
白寿 99歳 大正 8年生

七五三=平成27年・25年・23年生

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彌伽宜神社・枯木之宮(枯木堂)、枯木浦、枯木川此の呼び名は何を意味するのか?
以下は彌伽宜神社、倉梯、高橋、息長(行永)、枯木堂(枯木浦)等の考察文章の収集保存です。

彌伽宜神社・森についてのMemo(覚え書き)
 

延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)とは、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」とされていた全国の神社の一覧である。延喜式神名帳に記載された神社を、「延喜式の内に記載された神社」の意味で延喜式内社、または単に式内社(しきないしゃ)、式社(しきしゃ)といい、一種の社格となっている。
元々「神名帳」とは、古代律令制における神祇官が作成していた官社の一覧表のことで、官社帳ともいう。
国・別に神社が羅列されており、祭神、社格などが記されている。延喜式神名帳とは、延喜式がまとめられた当時の神名帳を掲載したものである。延喜式神名帳に記載された神社(式内社)は全国で2861社であり、そこに鎮座するの数は3132座である。
式内社は、延喜式がまとめられた10世紀初頭には朝廷から官社として認識されていた神社であり、その選定には政治色が強く反映されている。
当時すでに存在したはずであるのに延喜式神名帳に記載されていない神社を式外社(しきげしゃ)という。式外社には、朝廷の勢力範囲外の神社や、独自の勢力を持っていた神社(熊野那智大社など)、また、神仏習合により仏を祀る寺であると認識されていた神社、僧侶が管理をしていた神社(石清水八幡宮など)、正式な社殿を有していなかった神社などが含まれる。
式外社であるが六国史にその名前が見られる神社のことを特に国史現在社(国史見在社とも)と呼ぶ(広義には式内社であるものも含む)。
 

【延喜式神名帳 神社一覧より】
加佐郡:11座 大1小10:
◆奈具神社[ナク]宮津市由良宮ノ上3537
◆伊知布西神社[イチフセ]舞鶴市桑飼下杉ケ迫216
◆倭文神社[シトリ]舞鶴市今田津ノ上
◆高田神社[タカタノ]舞鶴市上安字中イナキ899
◆大川神社[オホカハノ](名神大:貞観元年(859)には神位の昇進)舞鶴市大字大川字徹光山169-1
◆阿良須神社[アラス]舞鶴市小倉字フル宮13・福知山市大江町北有路高畑461
◆笑原神社[ヤハラ]舞鶴市紺屋町29
◆麻良多神社[マラタ]舞鶴市丸田字宮ノ谷142
◆三宅神社[ミヤケ]舞鶴市北吸字糸212-5
◆八幡神社舞鶴市河辺中村下354-2
◆日原神社[ヒハラ]舞鶴市女布字日原353
◆弥加宜神社[イヤカキ]京都府舞鶴市森井根口871-7       彌加宜神社[みかげ]「天御影大神、譽田別大神」     

参拝のしおり

当社の御祭神は天御影命亦の御名は大日一箇命にして創立年代は崇神天皇の 御宇11年丹波道主之命の御祭給う所として延喜式内の御社也。
当社の例祭日は往昔より大陰暦6月14日なりしに、明治の御代に至り 7月14日に改む此の例祭日は御鎮坐の祭日ならんかと推察す。
丹後風土記に曰く、杜に坐す彌加宜社文に曰く、彌加宜社は往昔丹波道主之命の御祭給う所也、 杜の中に霊水あり、世に杜清水と称す、此の杜清水は1200年前の丹後風土記に 記載せる太古と変わらず混々と湧出して、其名最も高く貴重なる御霊泉也。
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【枯れ木堂】

枯木之宮(弥加宜神社摂社) :斉藤 喜一 氏のホームページより転記しました。

以上は伝説である。では本当は何故に枯木浦と呼ばれたのであろうか。
こんな事を問う人はいないのであるが、これはそんなに難しくはない問題である。
加佐郡式内社の弥加宜みかげみかげみかげ神社(舞鶴市森井根口)の大きな鎮守の森の入口、赤い大鳥居の外側に枯木之宮(弥加宜神社末社)がある。
府道・白鳥通りに面していて車からもよく見える場所にある。
小さな建物であるが、朽ちかけた欅の大木の下のちょっと大きな祠という感じの建物で、こんなに古いものが現在にまで残っているのは奇跡のようなに思える。
表には「枯木堂」と書かれているようで仏堂かとも思える、内部を覗くと石の仏像が三体祀られていた。
しかし「大森大明神再興之記」(延享4)に、「枯木之宮者西宮夷三郎也」とあり、元々はこの浦の海人たちが齋き祀った立派な神社だったようである。
枯木浦の枯木はここから出たものであろう、弥加宜浦とは呼ばないので、弥加宜神社よりも歴史が古く、本来はこの地の鎮守であったものと考えられる。
後世に枯木神社はその鎮座地(杜清水の地)を弥加宜神社に奪われて、境外に追い出されたものであろう。
もちろん枯木神社だけがあったわけではなく、周辺に集落があり、枯木の里と呼ばれる周辺一の大集落だっただろうし、倉梯とか高橋と呼ばれる以前はこの地は枯木と呼ばれたと思われる。
残欠が書かれた頃にはすでに追い出されかけていたであろうが、残欠が枯木浦と記録していてくれたお陰で歴史は復元できるのである。
『倉梯村誌』は、
初め現時の行永小字彌伽宜谷に奉祀せられしが、聚落の移動交通の発達に倶ひ再遷三遷遂に現神域に奉祀せられたりとの説あれども其年代更に詳ならず、果して然りとすれば、土地の沿革聚落の発達交通系統等より考へて蓋永禄…三七〇年…以後の事かとしている。
永禄(1558〜70)ということはない、残欠の頃にはすでにここ杜清水の聖地に来ている。
当時は現在ほどに大きなものであったかどうかはわからないが、参道は現在もその弥加宜谷の故地まで続いていて、その辺りをうろうろしていたかも知れない。
現在も清水がわき出し続ける杜清水と呼ばれるこの聖地には古くからガンと枯木社が鎮座していたのである。
弥加宜神社といえどもその歴史を抹殺することはできなかったのであろう。
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「枯木浦」:高橋氏
国造りで島々を集めるかけ声が呼び名に
 舞鶴湾の戸島から東側、東港の古名を「枯木浦(かれきがうら)」といいます。その名の由来については、「丹後風土記」の一説、枯木浦に興味深い話を残しています。
【神様が「おいでおいで」】
 「昔、少彦名(すくなひこな)と大巳貴(おおなむち)(大国主尊)(おおくにぬしのみこと)の二人の神がこの地で国を造ろうとしたとき、海に清らかな島が欲しいと思った。島を集めるため、笠松山に登り大きな声で「カレキカレキ(おいでおいで)」と呼んだ。すると、四島が集まってきた。これが枯木浦の名の由来である」と伝えています。
 二人の神が登った笠松山とは、舞鶴湾の東側にある愛宕山で、呼びかけに集まった四島は、渕島(現在の浮島)、烏島、蛇島、戸島であると言われています。
 一番大きい戸島は、枯木浦を外敵から守るために入り口にとどまり、戸の役目を買ってでた。そこで、その名が付いたとも伝えられています。
【歴史を形づくる島々】
 この四島は、古くから枯木浦の歴史を形づくっています。戸島では古代の祭祀土器が発見され、渕島には鎌倉時代の元寇に敵国降伏の祈願がされたという嶋満神社をまつり、烏島には中世水軍の一人・水島碇之丞(いかりのじょう)が城を築き、今も弁天がまつられ、蛇島には戦国時代の武将・逸見(へんみ)駿河守が城を築き、著名な連歌師・里村紹巴(じょうは)が訪れたといいます。
【大自然への祈りにはじまる】
 枯木浦の歴史と祈りは、古代海人の大自然に対する祈りにはじまり、中世の水軍たちに受け継がれ、育まれたものであると考えられています。
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【丹後風土記・丹後国天橋立之図】

 
地名 行数


倉椅(橋)川  4行目
枯木浦  7行目
慈光寺 11行目
高石 15行目
日置村 17行目
金剛心院 18行目

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【丹後風土記残欠】
永濱宇平編『丹後史料叢書』より
当国者往昔天火明神等降臨之地也蓋丹後国者本与丹波国合為一国于時日本根子天津御代豊国成姫天皇御宇詔割丹波国五郡置丹後国也、所以号丹波者往昔豊宇気大神天降于当国之伊去奈子嶽坐之時天道日女命等請求大神五穀及桑蚕等之種矣、便於其嶽堀真名井灌其水以定水田陸田而悉植焉則秋垂穎八握莫々然快也、大神見之大歓喜詔阿那迩恵志而植弥之子田庭然後復大神者登于高天原焉、故云田庭也。
丹波旦波但波以上其文字皆以訓 多爾波。
国之大体首離尾坎壱東西壱百壱拾四里壱百参拾歩南北七拾弐里壱百拾歩東隣若狭国西隣但馬国南隣丹波国北接海。
所在之山川野海其所産之禽獣草木魚鼈等不得悉記之但其一二記于毎郡之条下矣。
(以下三行虫食い)
郡合伍所
伽佐郡 本字笠
与佐郡 本字匏
丹波郡 本字田庭
竹野郡 今依前用
熊野郡 今依前用
郡合卅八里九拾七
余戸弐
神戸四
神社合壱百卅伍座
六拾伍座在神祇官
七拾座不在神祇官
加佐郡(二字虫食い)九余戸壱神戸壱里(以下虫食い)
志楽郷 本字領知
高橋郷 本字高椅
三宅郷 本字前用
大内郷 今依前用
田造郷 今依前用
凡海郷 今依前用
志託郷 本字荒蕪
有道郷 本字蟻道
川守郷 今依前用
余戸
神戸
神社合卅伍座
青葉社
天蔵社
山口坐祖神
日尾月尾社
志東社
大倉木社
御田口社
河辺坐三宅社
鳴生葛島社
同将軍社
杜坐弥加宜社
高田社
倭文社
砧倉社
手力雄社
日原社
出雲社
伊加里姫社
笠水社
笑原社
伊吹戸社
十二月栗社
石崎坐三輪社
凡海坐息津島社
凡海息津島瀬坐日子社
大川社
伍蔵社
布留社
船戸社
伊知布西社
麻良多社
水戸社
奈具社
神前社
気比社
剣社
阿良須社
(虫食い)壱座在神祇官
伽佐郡
伽佐郡者旧用笠郡之字訓曰宇気乃巳保里所以其称宇気往昔豊宇気大神留坐于田造郷笶原山而(三字虫食い)受其恩頼故曰宇気也笠一訓伽佐(二字虫食い)世謬曰伽佐乃(四字虫食い)
志(六字虫食い)
所以号志楽者(三字虫食い)彦名命大穴持命当巡覧所治天下時而悉巡行於此国畢更到坐于高志国之時召天火明神詔汝命者可領知此国火明神大歓喜乃曰永母也青雲乃志良久国矣故云志楽也
青葉山
青葉山者一山而有東西二峯名神在焉共号青葉神其東而所祭神者若狭彦神若狭姫神二座也其西向所祭神者笠津彦神笠津姫神二座也是若(四字虫食い)後国之分堺而(五字虫食い)津姫神丹波国造海部直等祖也于時二峯同多松柏至于秋不変色(以下一行虫食い)
甲岩
甲岩者古老伝曰当于御間城入彦五十瓊殖天皇之御世当国青葉山中有土蜘曰陸耳御笠者而状賊人民故日子坐王奉勅来而伐之則丹後国(六字虫食い)堺鳴動以顕光輝忽然有巌石形貌似金甲因名之将軍之甲岩也其地号鳴生矣
河辺坐三(二字虫食い)(以下三行虫食い)
御田口祠
御田口祠者往昔天照大神分霊子豊宇気大神猶照臨于(五字虫食い)造日本得魂命等使以地口之御田奉更建校倉蔵其穀実也故名曰阿勢久良且奠其倉以称御田口祠(以下六行虫食い)
二石崎
二石崎者古老伝曰当于往昔平治天下之時大己貴命与(六字虫食い)地而二神相議坐把白黒之繊砂使白天火明神而詔之曰此石是吾分霊也汝命宜奉祭于(六字虫食い)于時也若雖波浪為鴻荒(二字虫食い)邦同焉天火明命隨詔崇其霊石則左右自分黒有神験(十二字虫食い)崎也後世土俗言瀬崎者誤矣(以下四行虫食い)
枯木浦 本字彼来
枯木浦者往昔(七字虫食い)貴大神斯二柱~当于国造坐之時欲令海路順次所在之渚島集合之便登于笠松山(三字虫食い)限息号呼以曰彼々来々則四嶼自来列故曰彼来也
春部村(以下二行虫食い)
大倉木社祭神国造(以下三行虫食い)
高橋郷 本字高梯
所以号高橋者天香語山命於倉部山尾上創営~庫以収蔵種々~宝設長梯(二字虫食い)列其庫之料故云高梯今猶峯頂有神祠称天蔵祭(四字虫食い)命亦其山口(二字虫食い)国有称祖母祠天道日女命者老来居此地績麻養蚕教人民製衣之道故云山口坐御衣知祖母祠也
与保呂乃里 本字仕丁
所以(虫食い)与保呂者古老伝曰往昔仍乎豊宇気大神之神勅於此地神人仕丁等被置之故云(虫食い)保呂矣
日尾社祭神天日尾神国日尾神天月尾神国月尾神四座祭田(以下虫食い)
庫梯山 倉部山別称也
倉梯川水源(以下虫食い)
長谷山墓大倉木(以下虫食い)
弥加宜社者往昔丹波道主之祭給所也(以下一行虫食い)
社中有霊水世号社清水(以下虫食い)
大内郷
所以称大内者往昔穴穂天皇御宇市辺王子等億計王与弘計王来(五字虫食い)造稲種命潜作安宮以奉仕故崇旧地以号大内(四字虫食い)奉移之与佐郡真鈴宮(以下三行虫食い)
高田社者祭神建田勢命也是丹(以下二行虫食い)
爾保崎
所以称爾保者往昔日子坐王(二字虫食い)逐土蜘之時其所挿持之裸剣触乎湖水以生鉄精則鷺?忽双飛来而為其剣被貫徹(三字虫食い)鉄精消却以復于故号其他曰爾保也
十二月栗神無祠奉木称神古老伝曰往昔稚彦霊神所植而毎歳十二月朔日生花全二十日結実正(二字虫食い)日取其実以奉大神至今其例不差蓋是神験之奇乎
田造郷
所以号田造者往昔天(二字虫食い)臨之時(二字虫食い)気大神教而(八字虫食い)雲命天降乎当国之伊去奈子嶽(五字虫食い)与天道姫命共祭大神及欲新嘗井水忽変而不能炊神饌故云泥真名井於是天道姫命援葦以占大神心故名云葦占山(四字虫食い)姫命授(三字虫食い)天香語山命而詔汝可発三其矢(虫食い)留之処必清地矣命諾而発其矢則至于当国之矢原山即時生根枝葉青々故(四字虫食い)矢原[矢原訓屋布]則于其地建神籬以遷祭大神而如定墾当巽方三里許湧出霊泉故天村雲命灌其泉(六字虫食い)荒水以和(四字虫食い)称真名井亦傍生天吉葛以其匏盛真名井水(二字虫食い)調度神饌長(四字虫食い)称真名井原瓠宮也於是春秋耕田施稲種遍于四方即人民豊故名其地云田造(以下四行虫食い)

笠水[訓宇介美都] 一名真名井在白雲山之北郊而潔清如麗鏡蓋是当乎豊宇気大神降臨之時所(二字虫食い)湧出之(四字虫食い)其深也三尺許其廻也壱百廿二歩炎旱不(八字虫食い)不見増減其味也如甘露以(三字虫食い)主治之麗機焉傍有二祠東者伊加里姫命或称豊水富神矣西者笠水神即笠水彦命笠水姫命之二柱此則海部直等(三字虫食い)祖神(以下五行虫食い)
凡海郷
凡海郷者往昔去此田造郷万代浜四十三里(三字虫食い)三拾五里二歩四面皆属海壱之大島也所以称其凡海者(三字虫食い)曰往昔治天下当大穴(七字虫食い)到坐于此地之時引集海中(三字虫食い)小島(三字虫食い)凡枯以成壱島故云凡海矣(三字虫食い)宝元年三月巳亥地震三日不已此郷一夜蒼(四字虫食い)海漸纔郷中之高山二峯与立神岩出海上今号常世島亦俗称男島女島毎島有神祠所祭者天火明神与日子郎女神也是海部直竝凡海連等所以斎祖神也(以下八行虫食い)
志託
所以称志託者往昔日子坐王以官軍将攻伐陸(七字虫食い)葉山逐隨之到此地則陸耳忽入稲中而潜匿也王子忽進馬入(六字虫食い)将殺則陸耳忽起雲走飛乎空中向南而去(二字虫食い)王子甚侵稲梁而為荒蕪矣故(以下十四字虫食い)
有道郷 本字蟻道
所以称有道者往昔天火明命飢到此地之時隨往乎求食所以連行螻蟻則見土神在穴巣国天火明神請食(五字虫食い)喜以奉饗種々盛饌故天火明命賞土神且詔曰爾後妙須以蟻道彦大食持命為称焉故曰蟻道也亦有神祠云蟻巣今阿良須者訛矣(以下七行虫食い)
川守郷
所以称川守者往昔日子坐王逐土蜘(六字虫食い)到于蟻道之血原先殺土蜘匹女也故云其地血原也于時陸耳欲降出之時日本得玉命亦自下流逐(五字虫食い)急越川而遁則官軍列楯守川発矢如(十字虫食い)流而去故号其地至川守也亦名官軍所屯之地于今川守楯原也其時舟一艘忽然(十三字虫食い)降其川六駆逐土蜘逐到由良港則不知土蜘所往矣於是日子(四字虫食い)陸地拾礫占之以覚知陸耳之登于与佐大山因号其地云石占亦祀其舟于楯原名称舟戸神矣(以下三行虫食い)
大雲川(以下八行虫食い)
神前(以下二行虫食い)
奈具(以下虫食い)
奈豆(以下虫食い)

【加佐郡には郷が9、余戸1、神戸が1、里(以下虫食)
 志楽郷 (本字 領知)
 高橋郷 (本字 高椅)
 三宅郷、
 大内郷、
 田造郷、
 凡海郷、
 志託郷 (本字 荒無)
 有道郷 (本字 蟻道)
 川守郷、余戸、神戸】

次いで加佐郡にある神社35社がリストされてます。何々社、とありますが、「社」を省略します。また、一行に2社宛が記載されてますが、ここでは、ベタに並べます。

【神社合丗伍座 青葉、天蔵、山口坐祖母、日尾月尾、志束、大倉木、御田口、河辺坐三宅、鳴生葛嶋、同将軍、杜坐弥加宜、高田、倭文、砧倉、手力男、日原、出雲、伊加里姫、笠水、笶原、伊吹戸、十二月栗、石崎坐三輪、凡海坐息津嶋、凡海息津嶋瀬坐日子(これだけ一行に一社)、大川、伍蔵、布留、船戸、伊知布西、麻良多、水戸、奈具、神前、気比、劒、阿良須 拾壱坐在神祇官】
末尾に、どんたくさんから頂いた、式内11社の所在地リストがあります。
【伽佐郡の字は本は笠郡の字を使っていた。宇気乃己保利(うけのこほり)と読んだ。宇気と読む所以は、昔、豊宇気大神、田造郷笶原(ヤブ)山に留まりまして、人民たちはその恩頼(みたまのふゆ)を受けたからである。それで、宇気と云う。笠は、また、伽佐と読む。よって、今、世に誤って、伽佐の己保利と云う也。】

つまり、以前は「笠」と書いて「ウケ」と読んでいた。「笠」は「カサ」とも読むので、今ではカサのコホリと間違えて読んでいる。と云う訳です。以下にも「笠」を「ウケ」と読む例が出てきますが、他に例を知りません。この郡名に特有な読み方、或いはこの書物に特有な読み方、と思われます。(何故そう読めるのか? 参考:稲荷・考)

【高橋郷 本字 高梯】
高橋と名付ける所以は、天香語山命が倉部山の尾上に於いて神庫を建てて、色々な神宝を蔵していた。長い梯を設けてその庫に到り料と為した。それで、高梯と云う。今猶、峯の頂きには神祠がある。天蔵と称する。天香語山命を祭る。亦、その山口の■■岡に祠有り。祖母の祠と称す。此の国に天道日女命と称する者あり。老齢になり此の地に来た。麻を績ぎ、蚕を養い、人民に衣類を製る道を教えた。それで、山口に坐す御衣知(みそしる)祖母(とじ)の祠と云う。】

先代旧事本紀(p106)では、天香語山は天道日女と饒速日が天でもうけた子ども、とされており、異名に「手栗彦命、高倉下」がある。神武記での「高倉下」と同一人物であろうが、ここの伝承との関連が注目される。 ■は、欠字。参照「高倉下」

「その庫に到り料と為した」は意味が取れません。或いは「長い梯子で、その倉庫に行って、適宜、宝物などを取出して、神様に供える料(品物)とした。」ってな事でしょうか。

【(高橋郷)与保呂乃里 本字 仕丁】
意訳:豊宇気大神が神人仕丁(よぼろ)を此処に置かせたので此処をヨボロと言う。
【(高橋郷)日尾社 祭神 天日尾神、国日尾神、天月尾神、国月尾神 四坐祭田・・・以下虫食い】
どんな神様なんでしょう、、、これらは。。。
【(高橋郷)庫梯山(くらはしやま) 倉部山の別称なり
倉梯川 水源 以下虫食い
長谷山の墓 大倉木 以下虫食い
彌加宜社は、昔、丹波道主の祭り給う所なり。以下一行虫食い
杜の中に霊水あり、世に名付けて、杜清水、以下虫食い】

東舞鶴の東側に「倉梯山」があります。

その北側を流れる川が「祖母谷川」。その北岸に「溝尻」(参照:高梯の、みそしる、御衣知祖母)という地名があります。さらに上流には「山口神社」があります。倉梯川の南側を流れる川が「与保呂川」。その上流のバスの終点「与保呂神社前」に「日尾池姫神社」があります。(以上4行どんたくさん報告)


・弥加宜(イヤカキ)神社

結構、読み方にも諸説ありそうですね。これは、高橋郷の条では「みかげ」と振りがな(by海部穀定、でしょう)があります。「御蔭」という社名もちょいちょいあるので、「みかげ」で良いのでしょう。なお、「宜」の字は、推古遺文では(その時代では)「ガ」とか「カ」と読んだそうだし、先代旧事本紀の国造本紀には「加賀」の国を「加宜」と書いてあったりするので、「加賀の国のイヤ栄えること」なんかを念願した「いや・かが」かも知れない、とは妄想でしょうか。。。(出雲御陰大神、播磨風土記揖保郡意此川条、は通行人の半数を殺生する、という「荒神」の性格がある。)


・与保呂川の水源が「養老山」にあるようですが、
 この山名、養老、は、「ヨホロ」が訛ったみたいですね。

彌伽宜神社と息長(行永)と高橋についての考察文収集MEMO
彌加宜(大森)神社(京都府舞鶴市森)※森地区の北端。ほぼ倉梯町で行永地区に隣接する。
祭神 天之御影命
祖神 丹波道主命(たにわみちぬしのみこと)
■与保呂川の大蛇伝説の、切断された大蛇の尾を祀る。「与保呂」は「仕丁(よぼろ)」と書き、「丹後国風土記〜残欠〜」には、「豊宇気大神が神人仕丁(よぼろ)を此処に置かせたので此処をヨボロと言う。」とあり、豊受大神を主祭神の一つとして奉祀する、籠神社社家の海部氏との関係が浮かび上がる。
■賀茂御祖神社(下鴨神社)の摂社にも、御蔭祭の行われる御蔭(みかげ)神社があるが、祭神、賀茂建角身命神(阿治志貴高日子根神)と、玉依比売命が降臨された場所という。賀茂大神は雷神で農耕神であり、賀茂氏も蹈鞴=鍛冶金工に関係する氏族であって、興味は尽きない。
■行永地区から、製塩土器が発見されており、古代は海が深く入り込んでいたこと、土器製塩を行った海人との関係が浮かび上がる。
■籠神社を奉斎する丹後の海部氏の本拠地とも非常に近く、天之日矛が、難波から近江へ入り、若狭へ抜けて、丹後から但馬に到るというルート上にあるというのも興味深い。「日矛」という名からどうしても鍛冶金工の技術を持つ集団が想像されるのだが、少なくとも7世紀以降は土器製塩が廃れ、鋳物の塩釜による製塩が主流になり、日本の鋳物師は鋳型を作る道具を供給する鍛冶師と一体になって活動していたらしいので、製塩を生業とする海人と鍛冶金工は、全くの無関係ではないということになる。天之日矛は、作金者の神天目一箇神なのかもしれない。
天之御影命(あめのみかげのみこと)
開化天皇の子、日子坐王(四世孫が神功皇后)の妃である息長水依比売の父。天目一箇神と同神とも、兄弟とも言われる。
息長水依比売(おきながみずよりひめ)
9代開化天皇の皇子、日子坐王(母は和珥氏)の妃。天之御影命の娘とされるが、実際は天之御影命を奉斎する三上氏の祖、国忍富命の娘。丹波道主命、水穂之真若王(みずほのまわかのみこ)、神大根王(かむおおねのみこ・八瓜入日子王)、水穂五百依比売(みずほのいほよりひめ)、御井津比売(みいつひめ)を産んだ。
丹波道主命(たにわみちぬしのみこと)
日子坐王と息長水依比売の長男。
11代垂仁天皇の皇后で、12代景行天皇を産んだ日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の父である。日下部氏の祖、沙本毘古王(狭穂彦・さほひこのみこと)とは、腹違いの兄弟。
10代崇神朝に、丹波方面に遣わされた四道将軍(記紀伝承で、崇神天皇の時、四方の征討に派遣されたという将軍)。因みに、北陸は阿倍氏の大彦命、東海は大彦命の子、武渟川別命、西道(山陽)は吉備氏の吉備津彦命、丹波(山陰)が丹波道主命。
和銅6(713)年、丹波国から加佐郡を含む5郡が分割され丹後国が置かれたが、丹波道主命は現在の舞鶴市東地区一帯、息長の転訛といわれる行永(ゆきなが)地区を開拓し、古代丹後国加佐郡の志楽(しらく)郷・高橋(椋橋(くらはし))郷を本拠としたと伝えられる。
■「古事記」では、丹波方面の四道将軍は、丹波道主命の父、日子坐王となっている。
■「丹後国風土記(残欠)〜高梯郷〜」には、「高橋と名付ける所以は、天香語山命が倉部山の尾上に於いて神庫を建てて、色々な神宝を蔵していた。
長い梯を設けてその庫に到り料と為した。それで、高梯と云う。今猶、峯の頂きには神祠がある。天蔵と称する。天香語山命を祭る。」とあり、また、「庫梯山(くらはしやま)、倉部山の別称なり。」とある。
天香語山命は天火明命の子で、丹後から大和の葛城や熊野・尾張までの広範囲に足跡を残す、尾張氏・海部氏等の祖神だが、その別名の「高倉下」の由来となった「高倉」は、東舞鶴の倉梯山の天蔵社かもしれない。
「倉梯山」といえば、応神天皇の子、隼別王(はやぶさわけのみこ)と雌鳥皇女(めどりのみこ・女鳥王)が駆け落ちした、阿倍氏の本拠地・奈良県桜井市倉橋の倉梯山が有名だが、この丹波道主命が本拠とした舞鶴市東地区の行永にも倉梯山がある。
ここで、武烈天皇の項で詳しく述べた、物部麁鹿火大連の娘・影媛と、大臣平群真鳥(へぐりのまとり)の息子、鮪(しび)の悲恋の物語を思い出して欲しい。物部影媛が奈良山で詠んだ歌は、「石の上 布留を過ぎて 薦(こも)枕 高橋過ぎ 物多(ものさわ)に 大宅(おおやけ)過ぎ 春日(はるひ)の 春日を過ぎ 妻隠(つまごも)る 小佐保を過ぎ」と地名が続くが、この「高橋」と「大宅」は、和珥氏系の高橋神社のある旧高橋邑(奈良県奈良市八条町菰川)付近のことである。
そしてなんと、舞鶴の高橋郷の隣りには大宅郷があるのである。この丹波道主命の父・日子坐王は、和珥氏の太祖といっても過言ではない人物であり、和珥氏の支族には、大宅家氏やその係累で高橋神社を奉斎する高橋氏がいるのだ。
私には、大和と舞鶴の「高橋」&「大宅」の地名が、同じ氏族をルーツとしていることを物語っているように思える。
高橋は「高倉に架けた梯子」で、高倉(穀物倉庫)と大宅つまり大きな三宅(屯倉)は「大和朝廷の直轄領から収穫した稲米を蓄積する倉」で、三宅は全国各地にあり、何の符合性もないと言われればそれまでだが、和邇氏系の高橋神社の祭神は、舞鶴の倉梯山に神庫を建てた天香語山命の祖母・栲幡千千媛であり、高橋氏は後に越後彌彦大宮司家となるのだが、その弥彦神社(新潟県西蒲浦郡弥彦村弥彦)の祭神は尾張(海部)氏系の天香語山命であるという符合は無視できない。
何故、日子坐王を祖とする和珥氏系の高橋氏が、尾張氏系の天香語山命を祀るのかは分からない。
しかし、天香語山命の父で栲幡千千媛の息子である天火明命を始祖として祀る籠神社の社家・海部氏は、国宝となった「海部氏系図」の中で、祖神天火明神は別名「大弥加宣志楽別(おおみかげしらくわけ)」といったとしており、これが謎を解くヒントとなった。
まず「志楽(しらく)」だが、これはこの丹波道主命の本拠地である古代志楽(しらく)郷(東舞鶴地区)のことであり、海部氏の発祥がこの地区と深く関わっていた証拠である。
そして「弥加宣(みかげ)」だが、これはズバリ舞鶴市倉梯町の西に位置する彌加宜(大森)神社)の祭神であり、息長氏の祖神・天之御影命を意味する。この神が天火明命と同神だとすると大変面白いことになるが、「別(わけ)」というのは「若様」のことであるから、丹波道主命とした方がよいかもしれない。
とすれば、天火明命=日子坐王、天香語山命=丹波道主命の図式も成り立つか?
■垂仁紀「天の神庫(ほくら)も樹梯(はしたて)の随(まにまに)」で有名な石上神宮は、この息長氏系の皇子・五十瓊敷入彦命が奉祀し、後に和珥氏系の春日臣市河(物部首の祖)の子孫と、天火明命と同神との説もある饒速日尊を祖とする物部氏が一緒に奉斎している。
石上神宮には、物部氏の祖・饒速日命がこの国に降った時、天神が授けたという十種神宝(とくさのかんだから)が祀られているのだが、これがこの息長氏系の天之日矛が持って来朝したという「八種の玉津宝(やくさのたまつたから)」とラインナップが非常に似ているのだ。
しかもなんと、この石上神宮には、八種の玉津宝と十種神宝は一緒に祀られているという。
つまり石上神宮は「神庫」である。
尾張(海部)氏の祖神・天香語山命は、舞鶴の倉梯山に「神庫」を建てた。共通するのは「神庫(ほくら)」である。
三宅氏には、天之日矛の子孫・五十迹手を祖とするこの息長氏系の他に、倉梯麻呂の阿倍氏系と阿倍氏と関わりの深い吉士氏系と越智氏系があるが、偶然ではないのではないか。
阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ・内麻呂)
武渟川別命の10世孫。
34代舒明2(639)年、百済大寺の建立が始まり、百済大寺の造寺司となる。大化改新(645)年、36代孝徳朝に於いて初代左大臣となる。またこの年に、氏寺、安倍寺を建立。
大化4(648)年には、 仏像四躯を四天王寺塔に安置している。
■倉梯麻呂が建立した安倍文殊院の東には、倉梯麻呂の名前の由来と思われる奈良県桜井市大字「倉橋」地区があり、その南東の宇陀郡大宇陀町には、息長氏系15代応神天皇の子、隼別王(はやぶさわけのみこ・母方の家系は桜井の田部氏。
饒速日尊を祖とする物部氏の支族にあたり、後に宇佐八幡宮祠宮家となる。)と、和珥氏系の女鳥王(めどりのみこ・雌鳥皇女)が駆け落ちした、倉梯山(音羽山・851m)がある。
冒頭の補足に詳しく書いた通り、阿倍氏と和珥(物部首)氏には、高橋氏という支族を持ち、饒速日尊を祖とする別系統の物部氏と関係がある(膳臣余磯の項、参照)という、2つの共通点がある。
どうやらこの「高橋氏」や「物部氏」は、息長氏や尾張(海部)氏にも関係があるようだ。
物部氏が自身の祖神・饒速日尊と、尾張氏の祖神・天火明命が同神と主張するのも、こんな所に理由があるのかもしれない。そういえば、隼総別皇子の母は、饒速日尊を祖とする田部氏の出身であった。
和珥氏系の皇女と物部氏系の皇子が駆け落ちして、阿倍氏の本拠地の真っ只中で、なんと尾張氏系の仁徳天皇に殺されたのは何か因縁を感じてしまう。
詳しく説明すると、息長氏の祖、丹波道主命(たにわみちぬしのみこと)は、舞鶴市の「息長」の転訛といわれる行永(ゆきなが)地区を本拠地としたのだが、ここにもこの倉梯麻呂の倉梯山があるのである。舞鶴の倉梯山は、古く高橋(梯)郷と呼ばれた地域にあり、「丹後国風土記(残欠)〜高梯郷〜」に、天香語山命が神庫(天蔵社)を建てて様々な神宝を蔵していた山として記載されている。
丹後(舞鶴)の倉梯山に神庫を建てた天香語山命は天火明命の子で、丹波から大和の葛城や熊野、尾張までの広範囲に足跡を残す、尾張氏・海部氏等の祖神なのである。その父の天火明命は、海部氏の奉斎する籠神社(京都府宮津市字大垣)に祭神として祀られているのだが、籠神社は「天橋立」の北岸に位置する。そしてその対岸には、安倍文殊院と同じ日本三大文殊の一つ「切戸の文殊(智恩寺:京都府宮津市天橋立文珠小字切戸)」があり、そのちょっと西の須津地区(野田川河口付近南岸)には、頂上に円墳三基を有する倉梯山(90m)があるのである。
膳臣余磯の項で述べた通り、阿倍氏系の膳氏は舞鶴や天橋立のある若狭湾一帯に勢力を張った一族である。
若狭の地名も奈良の桜井の地名も、余磯の賜った「稚桜部臣」からとするならば、若狭湾の「倉梯」と桜井市の「倉梯」が、全くの別物であるとはどうしても思えないのだ。
共通するのは「元伊勢」であるということだ。宮津の籠神社も元伊勢である。
息長氏系の倭比売命は、天照大神巡行の際、笠縫の次にこの阿倍氏の本拠地・大和の倉梯山のある「宇陀」を訪れている。
この時、倭大国魂神を大市の長岡に祀って、倭氏の市磯長尾市宿禰に託したのは、物部氏系の10代崇神天皇と尾張大海姫命の皇女、渟名城稚(入)姫命であった。
ここでも、この阿倍氏と、息長氏・物部氏・尾張氏との深い関わりが読み取れるのである。
もう一つ特筆すべきは、尾張氏の祖・高倉下命を奉斎する神社の一つに高倉神社があるのだが、その場所は、なんとこの阿倍氏の支族である伊賀氏の本拠地・伊賀上野なのである。
そして、北九州にある同名の高倉神社は、阿倍氏系の神社なのだ。
「倉梯」にかかる枕詞は、当に「天橋立」の「梯立の(はしだての)」である。
通説では「昔の倉は梯子をかけて登ったから」だといい、「梯立」とは、「梯子を立てかけること。また、そのさまをしたもの」をいう。
この三ヶ所の倉梯山の命名は、「そこに神倉があったから」とか、「そこに天橋立があるから」とか、もっと単純なものだったかもしれない。
しかし、阿倍氏と息長氏・和珥氏と尾張(海部)氏と物部氏を繋ぐ「倉梯(高橋・高倉)のリング」は、一体何を意味するのだろうか?
 

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